2013 | 鳳凰の庭園:シカゴ日本庭園 120周年記念
Written by Robert W. Karr, Jr. | Published in the North American Japanese Garden Association Journal, Issue No. 1 (2013) (English)
This article was submitted for publication in February 2013, and published in June that year. While awaiting publication, the Garden of the Phoenix Foundation was established on March 1, 2013 - 120 years following the dedication of the Phoenix Pavilion on March 31, 1893. As described in the article, over 120 cherry trees were planted in April and May 2013. People started coming to the Garden of the Phoenix, including Yoko Ono in May 2013. Inspired by this rich and complicated history between the U.S. and Japan, and the site itself, she was inspired to create SKYLANDING, which was completed in 2016. Today, peace is rising from the ashes of the Phoenix Pavilion, and a new era is born.
The following is the article in English, with links to footnotes, which are being added as new karreport blog entries with additional information that is not available in the article. If you are interested in receiving the quarterly report for karreport, which highlights the updates and provides other materials not available on this website, please contact us.
鳳凰の庭園:シカゴ日本庭園 120 周年記念
昔から日本人は、鳳凰が天から舞い降りてくると、平和と繁栄の新時代が到来すると信じてきた。(1) 1893年3月31日、世界コロンビア万国博覧会(以下、「シカゴ万博」と呼ぶ)開催の準備のため、アメリカの中心地であるシカゴ市のウーデッド・アイランド(Wooded Island)に日本人とアメリカ人が集った。(2) そして、パビリオンという形をとる鳳凰(図-1)の出現を祝う一方で、その鳳凰が世界に日本という国について教えると引き換えに、人々を相互理解と自己理解に導いてくれるよう祈った。
シカゴ市は、 これまで120年もの間、日米関係の浮き沈みに耐えながら、ウーデッド・アイランドにある鳳凰殿の地をアメリカ人が日本文化を体験するための場所として維持してきた。(3) 1930年代には、鳳凰殿に添う形で壮大な日本庭園が増設された。しかし、第二次世界大戦を受けて、鳳凰殿および日本庭園ともに消失したため、日本庭園は灰の中から復元され、アメリカ国内で日米関係の過去と未来を象徴する最も重要な場所の一つとなったのである。
2013年には、「鳳凰の庭園」の設立から120年を記念して、今日におけるこれら二国間の相互理解と尊重を祝うべく、120本の桜の木が植えられる。新植される木々は、より大きな協力の時代の到来という両国の希望をも記念するであろう。また、それらが大きさ・数ともに成長し、日本の風習であるお花見で毎春楽しまれるようになるにつれ、次世代のための文化交流・文化伝達の新たな機会がもたらされるであろう。
日本とシカゴ万博
1890年2月24日、シカゴ市は、アメリカ政府により、国が始まって以来最も重要な国際イベントの一つの開催都市に選ばれた。それは、1492年のコロンブスによる新大陸発見から400年を記念する万国博覧会であった。(4)
アメリカのど真ん中に位置するシカゴ市は、交通と交易の交差点として、シカゴ大火(1871年)の廃墟から迅速に復興した。1890年までには、シカゴ市の人口は100万人を超え、建物の景観も世界初の摩天楼と呼ばれる形になり始めていた。ニューヨーク市、ワシントン市、そしてセントルイス市を差し置いて選ばれたシカゴ市は、今や「太平洋から大西洋」にまたがるこのフロンティア国の野望と不屈の精神の象徴であった。
ミシガン湖の南岸にあるシカゴ市のジャクソン・パーク (Jackson Park) は、まるで一晩にして、砂と湿地からシカゴ万国博覧会のための巨大な新古典主義建築物が立ち並ぶ電気の街へと化した。「ホワイト・シティ」として知られるようになったシカゴ市には、その時代の工業的・科学的・芸術的な才能の最たる例を一目見ようと、世界各国から実に2,700万人以上の人々が訪れた。
シカゴ万博には、ほぼ全ての国が参加した。どの参加国もシカゴで自国をアピールすることの重要性を理解していたものの、それを最も理解していた国は日本以外にはなかったであろう。日本は、1853年まで数世紀もの間、世界からの鎖国政策を維持した。アメリカ合衆国により開国が強制された後、日本は衰退した封建制度の改革に向けて大胆な措置を取り始めるとともに、西洋の科学、技術、および社会システムを急速に導入していった。(5) そして、シカゴ万博が開催される頃には、たった40年間のうちに成し遂げた進歩はもちろん、万博参加国の中で最高の予算額と最も綿密な計画を世界に対して示す準備が日本にはできていた。
日本の主な目的は、諸外国との交易と商業に開かれた現代国家・産業国家としての存在感を世界に示すとともに、押し付けられた不平等条約を克服することにあった。1890年6月、シカゴ万博への参加を招待されて間もなく、日本は人的・物的資源を整える一方で、最適な展示場所を交渉するために代表者達をシカゴに送り込み始めた。(7) そして、日本の急速な近代化の産物を展示するための十分な場所をメイン展示会場内に確保すると、次にその偉大な芸術遺産、文化ならびに伝統を世界に適切に紹介するための建築物(図-2)の敷地を探した。
博覧会の中心部に位置するウーデッド・アイランドは、日本人にとって自国の物理的な特徴と似ていたため、最適な場所とされた。そこは、日本の伝統的建築物に理想とされる自然環境が存在していただけでなく、西洋文明を代表する巨大な象徴的建築物の中心に建設されることで日本の立場を引き上げるものでもあった。アメリカで最も著名な造園家であり、万博の景観設計部長でもあったフレデリック・ロー・オルムステッド(1822-1903)が設計したように、ウーデッド・アイランドは、建物に邪魔されず、万博の喧騒からも逃れられる静かな緑の空間を訪れる人々に提供する役割を担っていた。日本側関係者と万博主催側関係者との長期に及ぶ交渉が終了した1892年2月、万博の建設部長を務めたダニエル・バーナム(1846-1912)は、オルムステッド宛に熱心に手紙を綴り、「(日本人は)極めて美しい建築物を作ることを提案した・・・そして、それをシカゴ市への寄贈物として残すことを希望している」(9) と説明した。 間もなくして、日本の博覧会事務局は、面積15エーカーのウーデッド・アイランドの北側、2エーカーの敷地に建設を許可された。
鳳凰殿とウーデッド・アイランド
1893年3月31日、アメリカ合衆国と日本により、ウーデッド・アイランドで鳳凰殿の落成式が行われた。日本という国についてこれほどまで学ぶことのできる場所、そしてこれほど沢山の意味と希望が託された建物は、それまでアメリカのどこにも存在しなかった。
鳳凰殿は、日本の芸術遺産の偉業をアメリカで初めて世界に披露しようと丹念に設計されたものであった。1893年5月1日から6ヵ月に渡って開催されたシカゴ万博を訪れた数百万人の入場者は、同建築物のほか、その内部に展示された日本の美術品を通して、日本という国とその国民への理解と認識を深め始めた。シカゴ万博終了後、日米関係を象徴するだけではなく、次世代が引き続き日本について学べる場所になるようにと、鳳凰殿は日本の天皇からシカゴ市へと寄贈された。
シカゴの鳳凰殿は、京都市隣接の宇治市にある鳳凰堂と呼ばれる著名な建築物をモデルに建てられた。1052年に建設された鳳凰堂は、日本の伝統的建築の最重要例の一つとして評価され、今日も日本のシンボルとしてあり続けている。(10) シカゴ版は、神聖なる阿弥陀堂を世俗的な目的の建物に修正したことを表し、鳳凰殿と名付けられた。鳳凰殿は、中堂とその左右両側にそれぞれ渡り廊下で繋がった小さめの同一構造物2棟から構成された。また、それら建物の配置は、鳳凰の頭部、胴体、およびその横から広がる翼を象徴するように意図されていた。
各建物の内部は、日本美術・建築において重要な各時代の独自の様式を表現すべく、精巧に装飾されていた。(11) 北棟は、藤原(平安)時代(980-1185)の様式で、宇治の鳳凰堂ならびに京都御所の特徴を帯びていた。南棟は、足利(室町)時代(1333 -1568)の様式で、15世紀後半に京都に建てられた銀閣寺の特徴を備えていた。大きな中堂は、徳川(江戸)時代(1615-1867)の趣を反映し、名彫刻家である高村光雲(1852-1934)により設計・彫刻された欄間が施されていた。(12)
鳳凰殿は、1892年の夏に東京で設計・加工され、サンフランシスコに船で輸送された後、シカゴまで鉄道輸送された。(13) 同年の冬に建物がシカゴに到着すると、記録的な寒さとなった冬の間、日本からの大工職人24名により建設された。見物人達は、彼らの規律性と職人技にすぐさま虜になった。(14) 耳あての付いた青い帽子をかぶり、厚めの綿製ジャケット、ぴったりとしたズボン、そして親指と人差し指の部分で二つに分かれた地下足袋を身に付けた大工職人達は、風変わりな手工具を使いながら、はしごも使わずに地面から屋根に機敏に上った。
軽量木材を用いた伝統的な建築工法によって完成した建物(図-3)には、開閉・取外し可能な障子窓が用いられ、自然光が十分に利用されるとともに、低めのひさしとむき出しの梁があった。西洋における耐力壁の代わりに支柱を用いることで、内部の空間が柔軟かつ開放的になり、建物の外観と周囲の自然環境との流動的な空間を生み出した。このような建築様式は、万博内の主たるボザール様式とは著しく異なっており、アメリカ建築の今後の発展に関しての議論と想像の両方をかき立てた。(15)
全米から集まった建築家達が、鳳凰殿に魅了された。その中で真っ先に挙げられる建築家が、当時まだ26歳だったフランク・ロイド・ライト(1867-1959)である。後に20世紀を代表するアメリカ人建築家の一人となったライトにとって、この時の日本建築との初めての出会いは正に啓示であった。(16) ライトは、日本の住宅と庭との密接な関係について率直に称賛し、景観との連続性というこの感覚が、彼の建築が日本の伝統建築と共有した最も重要な特性の一つとなった。鳳凰殿との最初の出会いから間もなく、ライトは自身が後に「無駄の排除」と呼ぶようになった方法を試行し始め、西洋で見出された公式ではなく、日本が生み出した原理を重視することで、アメリカ式住宅設計を変革した。(17)
後年のライトは、1916年に新・帝国ホテルの設計を依頼されたことで、日本にその借りを返す機会を得ることになり、1923年の完成以降、それは東京の最重要建築物の一つとなった。(18) 鳳凰殿に触発されたライトは、東洋と西洋を繋ぐ技術的かつ美的な架け橋を築く一方で、他国の建築様式を真似ることなく、魂から建築を生み出すよう、日本人建築家を奨励することを望んだ。同ホテルは、完全に和風でもなく、また完璧に洋風でもない、いわばそれ自体が独自の世界であった。そして、それは異なる文化背景を有する人々が対等に会うことができるユニークな場所となるよう意図されていた。
鳳凰の目前での日本庭園の誕生
1893年のシカゴ万博終了後の数年で、ジャクソン・パークは、ホワイト・シティから、人と人、そして人と自然とがつながりを持てるようなのどかな都市環境へと生まれ変わった。(19) 新古典主義の建物と運河が撤去され、歴史の中へと消えていくと、穏やかな潟湖と豊かな緑が植えられた沿岸、島、ならびに半島とのより自然な相互連結システムが、遠く離れたこの600エーカー(2.4km2)の公園地全体に現れた。
鳳凰はすぐにウーデッド・アイランド一杯に翼を広げ、アメリカ人達が日本文化を引き続き体験するとともに、自然が繁栄する場所を提供した。 しかし、20世紀が進むにつれ、この聖域の外の世界はますます複雑になっていった。1930年代までには、主要国が世界大恐慌に陥り、第二次世界大戦への突入が避けられない状態となったのである。
日米関係の絶えざる困難にも関わらず、シカゴ市は、1893年に鳳凰殿を寄贈された際に日本と交わした約束と守り続けた。(20) 大恐慌の真っ只中にあった1934年、アメリカはニューディール政策の一環として公共事業局を立ち上げ、国の再生を図った。(21) その取り組みには、シカゴ市の公園を改良工事するための財政支援が含まれていた。シカゴ市公園委員会の初代局長を務めたジョージ・T・ドナヒュー(1884-1962)は、鳳凰殿を修復し、その美しさと重要性に釣り合う伝統的な日本庭園を増設する機会を獲得した。(22)
ドナヒューは、シカゴ市公園委員会の建築家であったE・V・バッシュバウムと造園家のロバート・E・ムーア Jr.に対し、大恐慌時にアメリカ連邦政府が打ち出した雇用創出プログラムの下で雇われた作業員が、それから16ヵ月に渡って遂行するための綿密な計画を作成するよう早速協力を求めた。庭園の設計は、1894年にこの敷地用に日本庭園の設計図を作成したジョージ・K・シモダ(1866 – 1981)のものを大まかに基にしていた。シカゴ美術館は、シカゴ日米協会、在シカゴ日本総領事館、およびその他機関と協力し、専門知識・人材はもちろん、本プロジェクトを無事に完了するため必須とされた様々な援助を提供した。
1935 年 7 月 27 日、シカゴ市公園委員会は、復元した鳳凰殿とともに、新しい日本庭園を一般公開した。(図-4)偶然にも、その公開は新しく在シカゴ日本国総領事として任命された井口貞夫総領事が到着したのと同時期であった。(23) さらに、シカゴ市では2回目の開催となった万国博覧会である「1933年進歩の一世紀 (1933Century of Progress)」において日本の展示品の一部であった日本茶室、灯篭、ならびに鳥居も合わせて公開された。一般公開前の建物と庭園の最終検査の際に、井口総領事は、「我々日本国民は、後世に渡ってシカゴがこの地において成しえたことに感謝するでしょう。我々は、偉大で且つ友好的な国の中心に移転した祖国の一部として、この地に敬意を表します。」と述べた。
新しい鳳凰殿の庭園(図-5)には、徳川時代に確立された廻遊式庭園という日本の伝統的な景観形式の主要要素のほとんどが含まれていた。(25) そして、この庭園の設計には、その風景の物理的条件から進化し、小規模で凝縮した領域内で広大かつ自然な景観を象徴するための努力がされた。西洋庭園の並木や対称的な花壇、直線的経路を用いる庭園形式とは対照的に、廻遊式庭園においては自然を超越するような表現はせず、むしろ自然の設定を模倣することによって庭園の要素を慎重に配置し、調和した美を確立するために設計されていた。この庭園様式は、英国の「景観形式」から発展したオルムステッドのウーデッド・アイランドとジャクソン・パークのためのより大規模な設計に沿ったものであった。
日本庭園には、二つの池と蓬莱島、滝、飛び石、そして太鼓橋が盛り込まれた。美しく彫刻された石灯籠は、庭全体の訪問客を案内するように道に沿って配置された。ほぼどの視点からも、美しく復元された鳳凰殿、静寂な潟湖、シカゴ万博からの建造物であるパレス・オブ・ファイン・アーツ(Palace of Fine Arts)(大規模な改装後、1933 年に科学産業博物館として再開した)を含む遠景を眺めることができた。
鳳凰殿と庭園の手入れは、シカゴ市公園委員会より、ショウジ・オオサト (1885-1955) とその妻であるフランシス・フィッツパトリック(Frances Fitzpatrick) (1897-1954)に委任された。同夫妻は、1935年から1941年にかけて、この敷地を日本茶館として共に管理した。(26) その短い間、鳳凰殿と庭園は、日本国外に所在する日本庭園の最高例とみなされた。この地は、ショウジとフランシスにとって、夫婦間における対照的な文化背景や異人種間結婚に由来する山積みの問題から逃避できる場所であった。
ショウジとフランシス本人たちにとっては困難であっただろうが、まるで将来を予言するかのようにSono(1919生)または、日本語で「園」(以下、「ソノ」と呼ぶ)と名付けられた長女によると、両親の持続した関係は、「おそらくどんな結果になろうとも一度下した決断に対する不可解なコミットメントであったか、あるいは最もシンプルな説明であると同時に、最も言い表しがたい絆 - つまりは、二人の間の愛だったのかもしれない。」(27)
鳳凰殿の灰からの復活
ショウジは、シカゴ万博よりも前に日本の北部で生まれた。両親の他界後、新しい人生と機会を求めて、世紀の変わり目にアメリカ合衆国に移住した。鳳凰殿と同じ道のりをたどるかのように、日本から船でサンフランシスコへ渡り、最終的にシカゴに到着した。途中、ネブラスカ州オマハ市で、フランシスという著名な建築家の娘と出会い結婚した。その後、3人の子供に恵まれ、成長した子供たちはそれぞれ、アメリカン・ドリームを追い求めた。
1941年12月7 日の日米開戦後、鳳凰殿は板囲いされ、庭園も間もなくして放置され衰亡した。120,000人 以上の日系アメリカ人の子孫と同様に、ショウジもまた家族から引き離され、今となっては彼にとって唯一の祖国といえる国家の政府によって一定区域に抑留された。(28) ショウジの運命に関わらず、またはそれに反して、彼の家族は果敢に立ち向かった。1934 年に 14歳 で祖国を離れ、有名なバレエ ・ リュス (Ballet Russe) に入団したソノは、戦時中に立入りが違法とされたカリフォルニア州を除いた全米の舞台でパフォーマンスを行い、全国的なセンセーションを巻き起こした。米国海軍の将校と結婚した次女のテルは、バージニア州ノーフォーク市に家族と共に落ち着いた。一人息子のティモシーは、 1943年に18 歳を迎えると、ヨーロッパの前線で戦うために米国陸軍 442 連隊戦闘団に入隊した。
鳳凰殿は戦争を生き延びたが、庭園でのショウジとフランシスの生活はそれまでになった。太平洋での終戦後一年にも満たない1946年、ちょっとした悪戯をしようと庭園を訪れた近所の子供により、偶然にも火災が引き起こされてしまい、その結果、鳳凰殿も同夫妻の夢も灰となってしまったのである。(29)
アメリカによる日本の「開国」から約100年、そして鳳凰殿の到着から60年に当たる1952 年 4 月、二国間に平和条約が締結され、正式に終戦を迎えた。新たな希望とともに、両国は平和と繁栄に向けて新しい道を再び歩み始めた。
かつては鳳凰殿によって美しく飾られたウーデッド・アイランドの庭園は、放置状態のもと、雑草が生い茂り、サギ、タカ、ハヤブサ、コウカンチョウ、ネコマネドリ、コマツグミ、ハゴロモカラス、キイロアメリカムシクイ、ガチョウなどの何百種類もの渡り鳥の避難所となっていた。1970 年代初頭には、自然保護論者たちにより、ウーデッド・アイランドは特別な野生生態系の指定地に認定され、また1977 年にはポール ・ ダグラス自然保護区に指定された。1973年にシカゴ市と大阪市の間に結ばれた新たな姉妹都市提携に証明されるように、こうした生態学への関心と日米関係の強化が、日本庭園の再発見と修復、さらには1981年6月21日の正式な再寄贈へと導いた。(30)
ウーデッド・アイランドの北端に所在した日本庭園の復元は、公的および私的支援によってもたらされた。シカゴ市公園委員会に委任されたカネジ・ドウモト(1912-2002)は、新しく庭園を設計し、1983年にフレデリック・ロー・オルムステッド賞を受賞した。独特の才能と持った堂本は、スタンフォード大学ならびにカリフォルニア大学バークレー校で学び、第二次世界大戦中に抑留された経験を有する一方で、フランク・ロイド・ライトと親しく仕事をしたことのある日系アメリカ人の造園技師であり、建築家であった。(31)
1993年、大阪市とシカゴ市の姉妹都市提携 20 周年を記念し、日本庭園は大阪ガーデンと改名された。(32) 大阪市は、シカゴ市への献身を深めるため、シアトル出身の造園家であるコウイチ・コバヤシの設計で、1995年に地元職人のジョン・オカムラにより手加工された後に設置されることとなった日本の伝統的な門を新設するための資金を寄付した。2002 年には、熟達した日系三世の造園家でポートランド日本庭園のキュレーターである内山貞文氏によって新しい滝を含む池(図-6)や庭石の完全な修復がなされた。決定的なこととして、内山氏は、庭園の未来を切り拓くには、我々はまず過去を理解しなければならないと強調した。(33)
今日、ウーデッド・アイランドの訪問者は、アメリカ合衆国の都会環境の中で、最も感動的な自然との繋がりの一つを体験することができる(図-7)。野生生物やアメリカボダイ樹、ホワイトマルベリー、しだれ柳、スズカケノキ、バー・オーク、およびアメリカキササゲを含む数々の固有植物の中で、大阪ガーデンは美しさと地域社会への貢献を高め続けている。私達は、こうして人類文化と自然の力との調和を図ろうと努力することで、鳳凰の歌声をもう一度聴くことができるようになるのである。
未来を創造するための過去の理解
毎春、珍しい野生の渡り鳥が、ほとんど目にされることもなく私達の地域を通り過ぎていく。何晩にも渡る旅の後で、鳥たちは空から舞い降り、木々で休む。そして、夜が明けるとともに歌いだし、食糧を探し求める間、一日中鳴き続ける。それからまた日が沈むと、空中に飛び立ち再び旅を続けるのだ。
1893 年 3 月 31 日、ミシガン湖上に日が昇ると、その暖かい光はウーデッド・アイランドの西側まで伸びていった。 その朝日の中、日本からやって来た鳳凰は、蛇のような首を上げ、尾を伸ばし、胸を前方に引き上げ、その力強い翼をウーデッド・アイランド一杯に広げて、再生を象徴した。龍の鱗が一枚一枚重なったようなその翼は、太陽の光の中で輝いた。アーモンド型の眼とスズメのような嘴を開くと、その体の深部から素晴らしい音色が流れ出し、新しい一日の幕開けを象徴すべくアメリカ新大陸の広大な平原の上空に解き放された。
日本では、人生を60年周期とする。この重要な概念は還暦と呼ばれ、人が過去を振り返る一方で、将来についての新たな理解とともに再生を経験することを可能にする。鳳凰堂およびその庭園が受け継いできたものに還暦を適用するとき、我々は鳳凰の概念が実は我々自身について教えてくれていることを理解する。最初の 60 年 (1893-1953)の間、相互理解と尊重が特に必要とされた時代に、鳳凰はこれらを同時に象徴した。世界は、1893年に啓蒙と近代化を祝うためにシカゴに集った後、大規模な成功とそれと同等の大規模な失敗という時代に突入した。現代文明が建設または破壊の手段を同等の効率性と完全性とで有していることを人間が知ったとき、破壊的な戦争における存在の脆弱性は明らかであった。
その後の 60 年間 (1953-2013)、日米両国は、太平洋での敵同士から世界的な同盟国に進化するために懸命に努力した。二国間の平和と経済的繁栄に焦点が当てられる一方で、両国民はこの惑星と共存し成長する方法を取り入れるための協力を拡大した。
今日、鳳凰の教訓を受け入れるために過去を反映しながら、ウーデッド・アイランドの日本庭園は、その輝かしい歴史において次の段階に乗り出す。私達は今、日米関係の過去と未来を象徴する米国でもっとも重要な地の一つである「鳳凰の庭園」の120年の歴史と再生をここに祝う。
第二の人生の最初のステップとして、シカゴ市公園委員会は、科学産業博物館南側沿い、コロンビア池付近、ならびにウーデッド・アイランドの北端に向かう潟湖の岸沿いに120 本の桜の木を新植する。これらの木は、シカゴ市への鳳凰殿の寄贈120周年を記念し、さらにこの地における歴史的、環境的重要性の理解と感謝を記念する。
1912年に日本とアメリカ合衆国がワシントン市のタイダルベイスンの北の川岸からポトマック川に沿って桜の木を植えた伝統に従い、シカゴの人々は両国の永続的な友好の象徴として桜の木の数と規模を大きくしてゆくことを希望している。
日本では、宇治の平等院鳳凰堂が建設された時代をはじめ、桜は、輝かしく美しく、しかし短命かつ儚いという命をそれ自体が象徴してきた。春になると、日本中で人々は桜の開花を心待ちにし、桜の木の下に集って命と精神の再生を祝う。この瞬間は短いが、桜の吹き込んだ希望と発展は存続するのだ。ジャクソン ・ パーク内の鳳凰の庭園に次世代の人々が訪れ、友人や家族と一緒になって桜の木の下で生命を祝おうとするとともに、ショウジやフランシスのように、人生をかけて国家間の平和構築に努めた太平洋両岸にいる人々のことを忘れずにいて欲しいと願わずにはいられない。時が経過しても、この希望が永遠に続き、私達がより平和でより豊かな未来を創り出すことができるように、花が咲き誇り、鳥が歌い続けますように-。
[END OF 2013 ARTICLE]
Videos
SKYLANDING by Yoko Ono (2016)
The Making of the Garden of the Phoenix Website (2016)
Jackson Park from Above (2015)
Websites:
The Garden of the Phoenix (gardenofthephoenix.org)
SKYLANDING by Yoko Ono (skylanding.com)
Footnotes
Kakuzo Okakura, The Ho-o-den (Phoenix Hall): An Illustrated Description of the Buildings Erected by the Japanese Government at the World’s Columbian Exposition, Jackson Park, Chicago (Tokyo: K. Ogawa Publishing Co., 1893; printed by C.D. Arnold and Co., Chicago).
.“In Japan’s Temple. Building of the Nation Is Dedicated to Fair Uses,” Chicago Daily Tribune, April 1, 1893, p. 9.
The site of the Phoenix Pavilion is the earliest enduring site in the United States dedicated by Japan and the United States as a symbol of the two countries' friendship and place for Americans to experience Japanese culture. On February 11, 1892 representatives of the Japanese Exhibition and South Park Commissioners concluded a written agreement whereby Japan would build the Phoenix Pavilion and gift it to the City of Chicago, and the City of Chicago through the South Park District (Chicago Park District) would maintain the building permanently and properly on its site on the Wooded Island as a symbol of the relationship between the two countries and as a place to experience Japanese culture. See Chicago Park District, Special Collections. See also, “Permanent Japanese Exhibit – The One Prepared for the Fair to be turned over to the City of Chicago,” Chicago Daily Tribune, February 19, 1892, p. 8.
J.B. Campbell, Campbell’s Illustrated History of the World’s Columbian Exposition (Toledo, Ohio: Carothers Pub. Co., 1894), and Donald L. Miller, City of the Century: The Epic of Chicago and the Making of America (New York: Touchstone, 1997).
Marius B. Jansen, The Making of Modern Japan (Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press, 2000) especially 371-473.
Masahiro Mishima, “The Factors and Motivation of the Ho-o-den’s Construction in the World’s Columbian Exposition, 1893,”[in Japanese] Journal of Architecture, Planning, Environment, Engineering, No. 429 (November 1991).
“Space Japan Wants,” Chicago Daily Tribune, November 1, 1891,p. 2.
“What the Japanese Propose to Do,” Chicago Daily Tribune, December 5, 1891, p. 8. After assessing various options, the Japanese government officially requested two acres of space on the northern portion of the Wooded Island for a building of the “most ancient style of architecture of Japan, and to make to the City of Chicago a gift of the structure at the close of the World’s Fair.”
Letter from Burnham to Olmsted, February 5, 1892, The Daniel Burnham Papers, The Art Institute of Chicago. See also, Thomas S. Hines, Burnham of Chicago: Architect and Planner (Chicago: The University of Chicago Press, 1974), 107; and, Kevin Nute, Frank Lloyd Wright and Japan (New York: Van Nostrand Reinhold, 1993) p. 53.
The Hōōdō, or Phoenix Hall, was constructed as a sacred building for religious purposes upon the 1500th anniversary of the death of Buddha. In 1994, UNESCO listed the Hōōdō as a World Heritage Site as part of the “Historic Monuments of Ancient Kyoto.” The Phoenix Hall, and its statue of Amida, have been designated as National Treasures by the Japanese government.
Mishima, “The Factors and Motivation of the Ho-o-den’s Construction in the World’s Columbian Exposition, 1893;” and Masahiro Mishima, “The Factors Surrounding the Form of the Ho-o-den in the World’s Columbian Exposition, 1893,” [in Japanese]Journal of Architecture, Planning, Environment, Engineering, No.434 (April 1992).
“Phoenixes Reappear after 118 Years of Journey,” The Chicago Shimpo, August 26, 2011, pp. 1-3.
According to Mishima, “The Factors Surrounding the Form of the Ho-o-den in the World’s Columbian Exposition, 1893,” the approval of the final designs of the Phoenix Pavilion was issued by Daniel Burnham in July 1892. However, the preparations for building began in Tokyo as early as May 1892.
“Workmen of Japan,” Oak Park Reporter, December 16, 1892, p. 6.
While Daniel Burnham embraced the use of classical architectural forms for the main exhibition buildings, Louis Sullivan (1856-1924), who designed the Transportation Building for the World’s Columbian Exposition, defiantly opposed him.
See Nute, 53.
Frank Lloyd Wright, An Autobiography (New York: Duell, Sloan and Pearce, 1962 (first published in 1932), 196. Wright wrote, “Becoming more closely acquainted with things Japanese, I saw the native home in Japan as a supreme study of elimination—not only of dirt but the elimination of the insignificant. So the Japanese house naturally fascinated me and I would spend hours taking it all to pieces and putting it together again. . . . At last I had found one country on earth where simplicity, as natural, is supreme.”
Frank Lloyd Wright, “The New Imperial Hotel,” (1922) in Bruce Brooks Pfeiffer, ed., Frank Lloyd Wright Collected Writings (New York: Rizolli, 1992). See also, Kathryn Smith, “Frank Lloyd Wright and the Imperial Hotel: a Postscript,” The Art Bulletin (June 1985), and The Imperial Hotel: The First 100 Years (1890-1990) (Tokyo: Imperial Hotel, 1990).
Julia Bachrach, The City in a Garden: A Photographic History of Chicago’s Parks (Chicago: Center Books on American Places, 2001). Bachrach is the resident historian of the Chicago Park District.
See Note 3.
Bachrach, Ibid. Until 1934, the Phoenix Pavilion was under the management of the South Park Commission, which was one of three original park commissions established by the Illinois State Legislature in 1869.
“Lovely Temple of 1893 Fair Being Restored, ”Chicago Daily Tribune, February 18, 1934, p. 7.
See “Renewed Japan Gardens to be Opened July27,” Chicago Daily Tribune, July 15, 1935, p. 7.
Ibid.
See undated narrative seven-page typed report maintained in the Chicago Park District Special Archives, which appears to have been written soon after the completion of the Japanese Garden, and describes in detail the newly established garden. Author and date unknown.
On May 23, 1935, Shoji Osato entered a contract approved by the Chicago Park District that provided him the sole and exclusive right to operate concessions, including the sale of Japanese novelties, in the Japanese buildings on the Wooded Island. Among his contractual responsibilities was to provide 24-hour “watchman service” to guard the buildings, and the contents thereof, against vandalism. See “Journal of the Proceedings for Tuesday, May 21, 1935,” Chicago Park District Special Archives. Shoji Osato and S. Nagano are credited with the donation to the Chicago Park District of the Japanese tea house that was installed in the Japanese garden in 1935. The tea house was imported from Japan and exhibited by Japan Central Tea Association at the Century of Progress World’s Fair held in Chicago in 1933 through 1934. See the menu entitled “Japanese Tea Gardens” (c. 1936-41), Chicago Park District Special Archives.
Sono Osato, Distant Dances (New York: Alfred A. Knopf, 1980). Author’s interview with Sono Osato, New York City, November 2012.
After Pearl Harbor was attacked, President Roosevelt signed executive Order 9066 on February 19, 1942, forcing over 120,000Japanese Americans mainly from California, Oregon and Washington into ten concentration camps. See Alice Murata Ph.D., “Japanese Americans in Chicago” (Chicago: Arcadia Press 2002). For Shoji Osato’s ten-month internment experience in Chicago, see Osato, 198.
“Fire Destroys 1893 Fair Building: 2 Boys Set Fire in Jap Pagoda in Jackson Park,” Chicago Daily Tribune, October 13, 1946, p. 3. The Chicago Park District prepared drawings following the fire to rebuild or commemorate the only building, entitled “Rehabilitation of the Japanese Garden,” which is dated April 20, 1948 and includes there construction of shelter building that echoes the basic shape of the Phoenix Pavilion. A 1957 Chicago Park District Jackson Park survey drawing identifies “Japanese Garden” on the Wooded Island, and shows the ponds in their proper shape. See Chicago Park District, Special Archives. See also, “Famed Japanese Garden Restoration Is Sought,” Chicago Daily Tribune, December 26, 1960, p. W1, which explains the surrounding Hyde Park-Kenwood community proposed restoration.
Beginning in approximately 1977, the City of Chicago and the Chicago Park District with community involvement began reviewing the possibilities for reestablishing the Japanese garden and a tea house as part of what became called the Wooded Island Restoration Project. The design and implementation of the first phase of restoration was made possible through grants from the federal, state and city and strong community support, including the Japanese Garden Committee, which was led by Miya Hayashi. See Wooded Island Restoration Project (Chicago: Department of Planning and Community Development,1978); George S. Cooley and Arthur P. Traczyk, Ho-o-den (Chicago: Department of Planning, City and Community Development, 1978); and “Jackson Park’s Wooded Island, Japanese garden to thrive again,” Chicago Tribune, April 12, 1979, p. W2.
Death Notice of Kaneji (Kan) Domoto, New York Times, February10, 2002.
In 1997, the Osaka Garden Steering Committee was established to support the garden, and included numerous organizations, including the Chicago Park District, Chicago Sister Cities International, Friends of the Parks, Jackson Park Advisory Council, University of Illinois Master Gardeners, Museum of Science and Industry, University of Chicago, and Frank Lloyd Wright Preservation Trust. The committee has evolved over the years, and in 2009, the Friends of the Japanese Garden was established as a 501(c) 3 not-for-profit entity to become partners with the Chicago Park District to support the maintenance and development the garden. Over the years, these organizations have worked together to support the Japanese garden in various ways, including running Japanese cultural programs in and around the Japanese garden. See “7,000 Visit the Osaka Garden Fest,” The Chicago Shimpo, September 20, 2002, pp. 1-2.
Through Sadafumi “Sada” Uchiyama’s guidance over the years, we have come to understand and appreciate that caring for a garden is a journey, and a garden is not just a destination. We have learned that this garden, the “Garden of the Phoenix,” is truly a reflection of those who have cared about the U.S.-Japan relationship since the dedication of the Phoenix Pavilion on March 31, 1893.